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  • 株式会社コンカン

【代表の人物像&体験談!】「映画『いまを生きる』を紹介!」~この映画が伝えたいメッセージは、「自分らしく生きる」=「アイデンティティ」の重要性を問い掛けている!~


今日は、concan代表の私が「映画『いまを生きる』」を解説します。



この映画は、1990年「第62回 アカデミー賞」「第47回 ゴールデングローブ賞」にノミネートされた作品です。


なぜ、私が この映画を紹介するのかというと…

それは、この11月から concanがスタートさせる新サービス「アイデンティティ言語化サービス」の目指す世界が分かり易く伝わる映画だからです。この映画を、見て貰うと、アイデンティティの重要性が伝わります。


■1【あらすじ】

この映画は、「ロビン・ウィリアムズ」が主演を務め、名門全寮制学校の型破りな教師と生徒たちの交流と成長を描いたヒューマンドラマです。


1959年、アメリカの全寮制学校「ウェルトン・アカデミー」に、同校のOBである英語教師「ジョン・キーティング」が赴任してきます。厳格な規律に縛られてきた生徒たちは、「キーティング」の型破りな授業に戸惑うが、次第に触発され自由な生き方に目覚めていきます。「キーティング」が学生時代に結成したクラブ「デッド・ポエツ・ソサエティ」を再開させ、自らを語り合うことで 「自分が、本当にやりたいこと」は、何かを自覚していく生徒たちだったが、ある日悲劇が起こる……。


イーサン・ホークが生徒役で出演。監督は「刑事ジョン・ブック 目撃者」「トゥルーマン・ショー」のピーター・ウィアー。第62回アカデミー賞で脚本賞を受賞した。


それでは、私が この映画を見た感想と気づきを書きます。

■2【映画『いまを生きる』の感想】

この映画は、考えさせられる「映画」だった…。

感じたことは、大きく"3つ"あった。



◆一つ目は、「懐かしい」という感覚。

多感な高校時代。私にも、あんなピュアな時代があったよなっと。「やりたいこと」を何も考えず、ただ 情熱をもって、ガムシャラに突っ走しれる素晴らしさ。


〇「やりたいこと」をやると、そこには 何らかの『痛み』や『辛さ』、『圧』や『プレッシャー』が伴ってくる。

高校時代は、この事よりも、「情熱」=「怖いもの知らず」が勝る。しかし、大人になると この"痛み"を知るが故に、中々 「やりたいこと」をやれないものだ。

現状を言い訳にして躊躇してしまう。


私は、どちらかというと「やりたいこと」をずっとやってきたタイプだ。しかし、今は あの頃の「やり方」(純粋さ)ではなく、自分にスイッチを入れるのに"ちょっと"時間がかかる。

そして、『苦しさ』や『圧力』を忘れるために「ブルドーザー」のような進め方をする。この映画を見て、この「やり方」は"痛み"を知るが故の恐怖心に打ち勝つための「やり方」で、純粋さだけではやれない大人の事情かも知れないと、"ふっと"感じた。



◆二つ目は、「死ななくても…?」という感覚。

ニールの死は、多くの人に 波紋を呼んだ。

まずは、父親。父との確執が生んだもの。

「親の役割」って何だろう…っと考えさせられる。


私自身は、こう定義している。

〇「親とは、子供を 親が居なくても、生きていけるように育てること」。

これは、子供を 親の敷いたレールに乗せることではない。

子供が頼んでくれば 別だか、親は 子供が、自分自身で"モノ事"を考え、行動できるように、所謂 「生きる、生き抜く力」が身に付くように導くことだと思っている。


私は、亡くなった母から、色んな方向性を示された(言われた)ときに、何時も こう答えていた。


〇「お母さんは、俺より 先に死ぬだろう。お母さんが死んだ後も、俺は 生きていかなければならないので、自分で決める」と。常に、モノ事は 自分で決めてきた…。


もう一つは、ニールが、「言いたいことも言えない」環境をつくった父親の責任も重いが…

「ニール! 死ぬなよ!」と言いたい。

あれだけの情熱を「芝居」(舞台)に注げるのに、「なぜ、父に言えない?」。父親も、息子が あれほどの"想い"を持っていたことを知らずに、別れがきてしまった。


ニールが、言えなかったものは「勇気だけなのだろうか?」

私は、常日頃 こう思っている。

〇「やった後悔は、やらなかった後悔より、人生を何倍も豊かにする」。「やった後悔」には『経験』が残るからだ。

この『経験』が、次の『経験』を生む。


ニールに言いたい「なぜ、死んだのだ? なぜ、言えなかったのだ?」と…。



◆三つ目は、「学校って、何を教えるの?」って感覚。

学校側は、ニールの死によって、学校の評判が落ちることを避けるために、死の根本原因を探ることもせず、学校を守るために キーティング先生を「スケープゴート」にしてしまう。

社会には、よくある話だが、生徒の中にも、自分を守るために、先生を「スケープゴート」にしてしまうのは、「人間の醜い性」だ。 こんな時に、人間性が 問われるが、果たして、自分が その立場になったときに、どう行動するのか 不安は残る。


それから、高校って 何を教えるところなのかと、考えさせられる。 映画の中では、大学進学のための高校として描かれていたが、日本の進学校も まさに そうだ。


しかし、キーティング先生が教えているのは、授業(英語/詩)を通して、「自分らしく生きる」=「個性を出す」ことの重要性や必要性を、情熱をもって、面白おかしく伝えることで、生徒たちに刺さっていた。


映画のラストシーンでは、校長の前で キーティング先生を支持する生徒たちの姿を見て、救われた気がした。

「情熱は、捨てたものではない…!」と。

キーティング先生の教えは、まさに「アイデンティティの確立」だった。私が集大成としてやっている「人づくり事業」(じぶん軸)、そのもので、共感した。


◎と言うことで…

「映画『いまを生きる』を紹介!」と題して書いてきましたが、映画「いまを生きる」が伝えたいことは…

「自分らしく生きる」「力強く生きる」とは、大多数派が正しい訳ではなく、自分自身の責任(自責)に於いて、自分を信じ、"自分の道"を歩むということだ。


人は、誰でも 100の"強み"をもっていると言う。

"強み"は、人が潜在的にもっている、無理することなく、疲れることなく 出せる力のことだ。

これは、誰もが 自分の中に持っている、眠っている、「本来の自分」のことで、この本来の自分を取り戻すことが、「ダイヤモンド」を見い出すことなのだ…。

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