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  • 株式会社コンカン

【代表の人物像&体験談!】「大好きな"母の死"で、想うこと!」~副題:母への感謝の気持ちと、決意!~

今日は、私事ですが、2020年9月20日(日) 18:39 母「内田 光子」の死去(享年88歳)に際し、息子として、モノ事の言語化会社の代表として、母への「感謝の気持ち」と、自分の「今の気持ち」を書き留めて於きたいと思います。

母が、亡くなり「喪主」として、過ごした怒涛の3日間。 実は、まだ「実感」はありませんが… 先ずは、コロナ過の中で、母の「通夜」「葬儀」を無事 執り行うことができ、全てに感謝しています。 そして ご参列頂いた皆さん ご支援、ご協力頂いた皆さん 本当にありがとうございました。


【通夜・葬儀 その他情報】 ■会場:筑豊葬祭「セレモニーヴィラ飯塚」 *福岡県飯塚市菰田西3丁目17-8(実家から徒歩10分) ■「2020年9月21日(月) 家族葬スケジュール」 *通夜:18:00~19:00(その後 通夜食事会) ■「2020年9月22日(火) 家族葬スケジュール」 *おとき(お斎):10:30~11:30 *葬儀~出棺:12:00~13:00 *火葬~収骨:13:30~15:00 *初七日法要:16:00~17:00 *精進揚げ:16:00~17:30 *実家に遺骨安置:18:00(終了) 母は、元々 心臓と膝が悪く、過去 軽い「脳梗塞」を起こした事で、4年前から実家を離れ、介護施設と、病院との間で入退院を繰り返してきました。 そして コロナ過の中で、私が、最後に母に会えたのは、2ヶ月前でした。コロナの影響で、中々 入院している母には、会えませんでした。面会が、一人に絞られていたからです。 その分 2つ下の妹が、この4年間 よく母の面倒をみてくれました。妹には、本当に感謝しています。 数日前から、母の調子が悪いという知らせは受けていましたが、何時も回復していたので、今度も回復するだろう、大丈夫だろうと思っていましたが… 9/20(日)の夕方 危篤の報を妹から受けて、実家に向かう準備をしていた時には、「亡くなった」という知らせが入りました。 聞いた瞬間「えぇ…?」「本当?」 最初は信じられませんでしたが… 長男として、しっかりしなければと思い、妹に 私たち兄妹の"幼なじみ"が「葬儀場」に勤めていたので、連絡し「病院」から「実家」に母を運んで貰うよう頼みました。 そして 数時間後 妻と二人で実家に行き、母に対面しました。 まだ 母は、温かく安らかな顔をしていました。 「今にも、目を覚ましそうでした。」 死に目には、立ち会えませんでしたが、それがせめてもの救いです。そして、ここから、怒涛の3日が始まりました。 コロナの前までは、生前 母を月に一度は、施設から連れて、母の好きな物を食べに、外出していました。 母は、お肉が好きで、特に 焼き肉の「焼きしゃぶ」を好んで食べていました。 母は、かなり気の強い、物事の良し悪しを"はっきり"言う女性でしたので、周りの皆さんに もしかしたら、嫌な思いをさせたかも知れませんが、私にとっては、本当に、優しい素敵な母でした。 母との思い出は、色々 ありますが、幼い頃、よく好きな映画を見に 連れて行ってくれました。 私が 好きだった「宇宙戦艦ヤマト」や「はだしのゲン」。そして 「ゴジラシリーズ」や「東映まんが祭り」など。 それから… 私は、かなりの「悪そう坊主」だったので、近所の子供たちと、大人数で、乱闘まがいの「大喧嘩」をしていました。母は、そんな正々堂々の大喧嘩の後、大量のアイスクリームを買って、子供たちに配ってくれました。 母との最後の思い出は、病院で亡くなった後、4年振りに、実家に連れて帰り、最後の夜を仏間で、私と、冷たくなった母と、妹と、川の字になって寝たことです。 私が 生まれたのは、神奈川の小田原ですが、両親の離婚で、小田原から、母の実家の飯塚(福永家)に戻って来たのが、50年前 私が3歳で 母が、33歳の時でした。 母は、33歳の時から亡くなるまで、「女性」としてではなく、「母親」として、私たち兄妹を育ててくれました。 本当に、母には感謝しかありません。 私たち兄妹は、出来が悪く、中学、高校、そして 大人になってからも、迷惑 そして 心配の掛けっぱなしでした。 母には、頭が上がりません。そんな母は、私たち、兄妹の成長が、何よりの「生きがい」だったと思います。 こんな母から、私が一番学んだのは、「生きる力」だったと思います。それは、母と言うよりも、私を育ててくれた「本家の福永家」です。 父親代わりに育ててくれた「叔父(母の兄)」は、戦争を経験した「帝国海軍」出身者で、かなり厳しく、よく叱られました。 しかし、人一倍 愛情深い人だったので、その分 親戚の中で 誰よりも私を可愛いがってくれました。 私の座右の銘は、「"はい"、という勇気を持つ!」ですが、この考えを教えてくれたのも、叔父です。一番 尊敬している人ですが、私が 大学4年(33年前)の時に亡くなりました。 この「叔父」から学んだのが「生きる力」です。 私の人生は、「失敗」と「挫折」の連続でした。 しかし、失敗して、失敗しても、這い上がってくる「生きる力」を教えてくれたのが、母であり、母の実家の「福永家」です。 その母が、生前 よく私と妹に言っていたことがあります。 「私が死んだら…」 お世話になった福永の二人の叔母「英代おばちゃん(叔父の妻)」と「千恵子姉ちゃん(母の妹)」を頼むと。 特に、子供のいない「千恵子姉ちゃん」を頼むと。 私は、この母の「遺言」を、心に刻み込み、しっかり守っていきたいと思っています。 母代わりだった「二人」を、妹と共に、微力ながら支えていきます。 母は、88歳の「大往生」ですので、今頃は きっと天国の「叔父」の所に行って、私たち兄妹のことを話していると思います。 天国では、「母親」ではなく「女性」として「第三の人生」を楽しんで、幸せになって貰いたいと思います。 ◎最後に… 母の戒名を紹介します。 「浄教院釋尼妙光」です。 私事で 大変恐縮ですが、母の死に際し「母への感謝の気持ちと、決意」を書かせて頂きました。

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