冬の到来を迎え、この季節から"口"にしたくなるものと言えば「鍋」だと思います!
みなさんは、何鍋が好きですか?「水炊き」「もつ鍋」「すき焼き」「キムチチゲ」など沢山ありますが、当の私は「もつ鍋」一択です。寧ろ 「好きな食べ物ランキング1位」と言っても過言ではありません。しかし そんな「もつ鍋」ですが、"ふと" そもそもの歴史を考えてみると、分からないことだらけです。
「何故、博多名物なの?」「何故、ホルモンなの?」「いつ、誰が、食べ始めたの?」
そこで 今日は、私が 大好きな「もつ鍋」について、調べてみます。
先ず…
【「もつ鍋」とは?】
●「もつ鍋」とは、牛や豚のモツ(ホルモン_を主な材料とする鍋料理のことです。福岡県 福岡市周辺の『郷土料理』として始まりました。今では、『博多名物』として 全国に知られています。
【「もつ鍋」のルーツとは?】
*「もつ鍋」のルーツは、第二次世界大戦後まで遡ります。当時 福岡県 田川市に、炭鉱夫として働きにきていた朝鮮の人々が、アルミ鍋でホルモンとニラを炊いて、醤油味で食べていたのがルーツと言われています。その後、時代の流れと共に、他の具材を入れ始め、味付けも少しづつ変わってきました。経済成長に伴い 1960年代には、ごま油やトウガラシ、ネギ等を入れ、"すき焼き風"にして 食べられるようになりました。更に 最近では、調味料もバラエティーに富み、"鰹"や"昆布ダシ"をベースに"醤油"や"味噌"を加え、更に ニラだけではなく、キャベツやニンニクも入れ、お好みで 鷹の爪などを入れることが、主流となっています。
因みに、お店として「もつ鍋」発祥のお店は、『万十屋』と言われています。今でもお店を続けられていて、創業から2代目に当たる「松隈 幸子さん」が名物女将として有名だそうです。
【何故「ホルモン」だったのか?】
*「ホルモン」という言葉は、関西弁で「放るもん」、つまり「捨てるもの」という意味です。戦後まもなく迄は、「ホルモン」は食材には使えない部位として扱われていたこともあり、捨てられていました。
しかし 当時、炭鉱夫として働きにきていた朝鮮の人々の生活が、特に苦しかったこともあり、「ホルモン」を工夫して食材として扱い始めました。それが あり合わせの野菜を加えただけの、お手軽な鍋として、日本の庶民の間に急速に広まりました。今でこそ、メジャーな鍋料理としての"地位"を確立している「もつ鍋」ですが、かつては 食べ物として扱われなかった部位を、当時の時代背景から、貧しい人達の知恵から生活の"糧"として、生み出された"創作料理"だったのです。
【何故 「博多名物」として、全国に広がったのか?】
*実は 現在は 博多の名物として知られていますが、元々は 東京でブームとなりました。寧ろ 東京でブームが起こるまでは、博多でもマイナーな食べ物でした。
1985(昭和60)年頃は、福岡市内で「もつ鍋」を出す店は「20~30軒程度」だったと言われています。福岡発祥とは言え、まだまだ 人気があった料理ではなかったのです。当時の名物は「水炊き」でした。
そんな「もつ鍋」が、全国に広まる"きっかけ"となったのが、銀座にあった「もつ鍋 元気」というお店でした。1991年(平成3年)に、東京 銀座8丁目のビルの地下1階にオープンしたお店です。このお店の店長である、「井上さん」がオープンの3年ほど前、下関を訪れたついでに立ち寄った博多で、「もつ鍋」を食べたことが"きっかけ"となりました。「たかが数百円のもつ鍋ですが、何万円もする"フグ"に劣らない」とすっかり ほれ込み、独自の「もつ鍋店」を構想したのです。これが東京人にも人気を博し、行列が連日連夜でき、そんな人気を見込んで、"二匹目のどじょう"を狙うお店が、都内のあちこちに出店しました。そして それを後押ししたのが、「バブル崩壊」による景気後退でした。単にヘルシーなだけでなく、とにかく安い「もつ鍋」は、財布の中身が寂しくなった東京人にとって救いの手となったのです。
*ところが、この東京でのブームは新たな問題を引き起こします。「もつ鍋」に使われるのは、主に牛の「小腸」です。実は 牛1頭あたりから取れる量は限られているため、需要が急増しても、直ぐに対応できる訳ではありません。これにより、1993年頃には「もつ不足」、そして ニラの高騰が問題として浮上したのです。しかも 天候不順で ニラの収穫量が減ったため、1992年末には、「もつ鍋」の価格が急騰する騒ぎも発生しました。
しかし この結果、お店で食べれない代わりに、「もつ鍋」は家庭でも鍋料理のラインアップに加わったのです。食品メーカーは野菜を加えるだけで食べられる「レトルトスープ製品」を開発し、普及することになります。こうして「もつ鍋」のブームを経て、発祥の地「博多」でも当たり前に食されるようになりました。
つまり、「もつ鍋」は、「『博多』生まれ、『東京』育ち」の料理なのです。
因みに、「もつ鍋」が普及し始めた1992年の「新語流行語大賞」の銅賞は、なんと「もつ鍋」でした。これには、流石に 驚きです!!
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◎と言うことで…
私が一番 驚いたことは、博多名物である「もつ鍋」が人気を博して、まだ 28年位ということです。昔から郷土料理と勝手に想像していましたが、意外にも私の年齢と同じ位ということで、何だか"親近感"も沸きました。私が大好きな「もつ鍋」が人気となる"きっかけ"を作った「もつ鍋元気さん」には感謝しかありません。
目の前の料理を調べると、その料理ついてだけで無く、時代背景なども見えてくることが面白いですね!この様なことを知った上で食べると、更に "食"を楽しむことが出来ると思います。
最後に 「もつ鍋」が普及する"きっかけ"を、もう少し深掘りして終わります。
【「もつ鍋元気さん」は、もつ鍋を普及させることが出来たのか?】
*先に述べた通り、東京で最初の専門店で、ブームの仕掛け役となった銀座の「もつ鍋 元気」ですが、このお店には明確な戦略がありました。それは 店内のインテリアは「ニラ」と「唐辛子」をイメージした緑と赤の「ツートンカラー」。そして 黒テーブルの上には"煙"の出ない特製電磁コンロをズラリと並べ、BGMは ジャズを流し、トイレには 使い捨ての歯ブラシが常備さしていました。これは「アメニティ・グッズ」を置いた飲食店のはしりと言われています。
つまり、「もつ鍋元気」は、開店 当初から「女性客」を、"ターゲット"に据えていたのです。この狙いは当たって、バブル時代をフレンチ、カフェバー、エスニック、イタ飯などと渡り歩いた若い女性たちが、新しいファッションフードとして飛び付いたのです。コラーゲンやビタミンが豊富で美容に良い、そして ニラやキャベツ等の野菜を沢山食べられるという事もあり、若い女性に人気を博し、どの店も「もつギャル」が長蛇の列を作ることになったのです。
つまり…
●「ゲテもの」イメージだった「もつ鍋」のイメージを、ファッションフードの一画に加えたのは、皮肉にも東京の「もつギャル(若い女性)」だったのです。
長くなりましたが、以上です。
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